■武田百合子
つづき(@_@)/
六月三十日(火)
通勤往復で読了。
最後は気を緩めるとやばそうだったので泣かないようにして読んだ。ちょっと前からそうだったが今日読んだところでは泰淳さんがどんどん病人になっていって、百合子さんの視線がいままでと違ってしまったように感じた。
いままでも後で書き足した〔 〕で括った文章の中ではいつも悲しさと後悔を滲ませていたが今日読んだ部分は特にそれが顕著で、そんなに悔やまないで、自分を責めないで、と何度も思いながら読んだ。
泰淳さんの亡くなった次の年に出された日記、いっぺんにまとめた形で世に出されたのかと思っていたが実際は「海」に連載されていったんだと最後のところに書いてあって、まだ夫を亡くしたことを整理できていないような中でノートに書かれた日記を一字一字清書されていったのだと知る。
百合子さんは泰淳さんのことを本当に尊敬してらして、敬愛していらしたんだ、ということがこの日記からはひしひしと伝わってくる。それは深くて、激しくて、でも同時にどこかで暗く重くもある、ひとことではとても語れないアイという感情。
武田泰淳 1912.2.12-1976.10.5
武田百合子 1925 9.25-1993.5.27
『富士日記』 1964.7.4-1976.9.21
■武田百合子
つづき(@_@)/
六月二十八日(日)
暇だったのでちょっと読もうかなと暑いので扇風機を足元で回しフローリングの床に枕ふたつ重ねて寝転ろがってページを開いた。心地よすぎて数ページ読んだだけで気がついたら文庫を片手に持ったまま30分以上眠っていた。眠かったので文庫を床においてそのまま昼寝。254ページまで。
六月二十九日(月)
今日読んだところで仔猫のタマが登場した。登場したと思ったらたちまち本編の主役級になっていった。百合子さんの関心の多くがご主人にあることは変わらないけれど、リス君やウサギさんの出る幕ではなくなったのだ。
そしてタマちゃんの殺戮の日々がはじまる。
家猫でお腹を空かすことのないタマちゃんにとって富士山荘の小鳥さんや子モグラさんや子ウサギさんたちは遊んで欲しい「おともだち」なのだが悲しいことにタマちゃんに遊んでもらったみなさんはだいたい短い時間で命をなくしていくのだった。そして動かなくなったおともだちに首をかしげ不思議そうにしつつ不満げにしばらくつついたり投げたりして存分に遊んだあとタマちゃんは関心をなくして眠りにいったりするのだった。百合子さんはそのあとおともだちを庭に埋める。このときの内心描写などはあえてなのだろう、いっさい書かれていない。
うーん。猫って野生動物なんだよなあ……。と、しみじみ、つくづく、思い知る。
タマちゃんが蛇を加えてきたときの泰淳さんのエピソードはユーモラスだったけど(だいぶまえに泰淳さんが蛇が苦手だっていうのが書いてあったのでさてどうなるかと思って読んだらまるで漫画みたいな展開で思わずにやにやしてしまった)。
こういう内容を変に感傷的にも同情的にもならずかといって妙にしたり顔になったりもせずに書ける百合子さんは天性の文才がおありだったのだなあ。
今日は往路は音楽を聴いて、昼休みと復路で400ページまで。
とうとう残り100ページを切ってしまったもうすぐ悲しい知らせを読まねばならないとわかっているのがつらい。
つづく。
■武田百合子
つづき(@_@)/
六月二十六日(金)
通勤往路&昼休み。復路は眠さに負けた(^ ^;)。
この日記を読んでいるとびっくりするくらい一人娘である花子ちゃんについての記述が少ない。小学校から高校2年(最後の1年は自宅から通学)まで立教の寄宿舎に入っていたからというのもあるけれど。なんていうかすごく自立している親だなあ。百合子さんて母親っていうよりは「妻」にウェイトがある感じ。まあこの日記だけじゃわからないことのほうが多いけど。
写真学校の学生になった花子ちゃんはデモに行ったりしている。時代だなあ。大学紛争まっただなかか。
花子ちゃんの知り合いのM氏が武田氏の本を借りに来た日の百合子さんの日記が印象的だった。「父親の本はうちの本だから私の一存で貸してやってもいいだろう」式に考えたムスメ、礼儀もわきまえずに当然のようにさっさと借りていこうとする青年に怒りまくる母親。うーむ。
250ページまで。やっぱり今週読了は無理だった、月曜までいったんお休み。
つづく。
■武田百合子
(@_@)/つづき。
六月二十四日(水)
通勤往復&昼休み。中巻(496ページ)読了。ようやく下巻に突入するも50ページで集中力きれる。
ポコの件以降、庭にやってくるリスやウサギの描写が徐々に増えていき、今日読んだあたりではかなり詳しく書いてあるところも出てきた。愛らしく、ユーモラス。
あ、あと家に出るネズミの謎の行動についてもかなり詳しく書いてある(ネコイラズを皿においておいたのが全部麦藁帽子のふちに並べてあるとか、ネズミの気持ちがわからないと百合子さんは書いている、退治しようとしている対象について書いてあるのだけれど彼女がネズミを書くとき、そこに嫌悪とか恐怖とか非衛生なものに対する厭わしさみたいなものがほぼ感じられない。だから最初のうち放置していたのがこのひとのつきあいかたで、ネコイラズを買うことにしたのは何らかのはたらきかけがあったのか、理性的になったのか、なんでかなあとか考えながら読んだ)。
今日読んだ中で初めて村松さんが出てきた。むろん、この時代だから「海」の編集者としてである。面白いなあ。
六月二十五日(木)
今日は電車の中でなんだかだるくてあんまり読めず。ほぼうつらうつらしていた。昼休みも本は読めなかった。というわけで130ページまで。
O村のAさんの家に唐糸織をみにいった日の日記で、その家にいったら桑畑があって、蚕が葉を食む音がさんさんさんさんとしていて、86歳くらいの小さいおばあさんがちょこんと座って笑っていて、という場面があった。読んでいて脳裏に浮かぶシーンのあまりの映画的・小説的な美しさに陶然とした。ああなんてきれいなの。うっとり。でもこれは文学作品でもフィクションでもない日々の日記だからそのあと家族が出てきてわあわあ言って帯とか出してきて買い物したりしだしたりして、一瞬の絹のような煌きはどんどん世俗にまみれていくのであった。ははは。
そういえば食べ物やビールや家の修復やガソリンなどの値段がほぼ毎日記してあるのだが、それが今とどう比べていいのか統一性がないからよくわからない。単純に全部○倍とかするとどうも合わないのはモノによって推移が違うわけだからだな。
で、気になって昭和40年代の初任給をネットでいくつか調べてみた。この日記が書かれたくらいの時期はおおよそ20,000円〜24,000円くらいとあってびっくり。ネットの情報だけじゃ心もとなくて父に質問すると同じような回答。
ええっ。今日読んだ部分で百合子さんは300円のサンドイッチを召し上がっていらしたが。思わず再確認(昭和44年11月5日)。高いサンドイッチだなあ〜。別に一流ホテルのじゃなくて談合坂の食堂だぞ。同じ場所でカレーライスは150円。あくまでもふだんの食事としてなにげなく摂っている。
ちなみに付近のページからひろってみると管理所で卵は6個で100円、牛乳2本60円、トマトケチャップ160円、みりん1本160円(酒屋では130円)、大根70円、という感じだ。初任給に比べて物価が高い。富士山付近だからかなあ。日本全体そうだったのかなあ。
大衆小説 |
■武田百合子
つづき。(@_@)
六月二十三日(火)
今日も通勤往復&昼休み読む、すいすいと読めるときもあれば同じ箇所を何回もなぞっているときもある。そういうときはいったん本から目を上げてしばらく休んでみる。
上巻は花子ちゃんの日記がけっこう混ざっていたけれど、中巻に入ってからずっとなかったのが293ページになっていきなり☆マークが出てきたので一瞬その印を忘れていて気付いたら「わあ、久しぶりだ」と嬉しくなった。昭和43年の1月だから、このとき彼女は16歳である。
前半はごくふつうの少女の日記だったが読み進むうちにびっくり、えーと、これはいったい誰に向けて書いたんだろう。お母さんやお父さんを念頭に置いてないことは確かで、だって日記が書かれているノートの色やデザインのこと、日記の中身に百合子さんが絵などをたくさん描き込んでいることなどが説明されているんだもの。そんなの実物の日記を目の前にしている両親にわざわざその日記帳に記して伝えることではナイ。
――そう、この花子ちゃんの日記はまるで見知らぬ読者に向けて書かれたこの日記の紹介文のようになっているのだ。花子ちゃんはこの日記がいずれ出版される種類のものだという認識でこれを書いたのか。それとも16歳の少女らしい自意識の強さがそうさせただけなのか。
百合子さんの書き方がほんとにふつうの日記風(すべてさらけ出している、というわけじゃなくてある程度ラインが引いてあるなというのはわかるが、あくまで出版を前提にしている説明調が無い)なので娘さんのこの書き方がなんだかすごく面白かった。またたびたび書いてくれるかなと期待したがそれはなし、ただ、実物の日記にはあるらしいイラストが出版物だと全然ないのはさびしいな――と思いつつずーっと読んでいたら347ページに絵が載せられていておおっ。
それにつけても百合子さんの車の運転はこわい。眠くなりながらはしょっちゅうだけど今日読んだなかにはついに夢を見ながら運転しているシーンや、片足が動かなくなった状態での運転が出てきた。いくら昔でもこれはなあ。飲酒運転に至ってはいまの検問では確実にひっかかること間違いなしである。あと、武田家の富士別荘における献立はほんとに時々笑えるくらい自由だなあ、と思う。泰淳さんはこの頃まだ50代半ばなのに歯が相当悪いなのが気になる。百合子さんは大正14年生まれなので年齢カウントがしやすい。
今日は394ページまで。
つづく。
■武田百合子
いつもみたいに読了してから感想upだと長期放置になりそうなので日記方式で参ります(@_@)/。
六月二十一日(日)
ネットで3冊まとめ買いして6月15日(月)から読み始めたがまだ(中)の150ページ付近読書中。読みはじめる前は長いし途中で挫折するかもなと危ぶんでいたが予想以上に面白い。
上巻に収められている昭和40年の夏には著者にも関わりのある文人が何人も亡くなっていて、特に梅崎春夫さんのことを書いた部分には胸をつかれた。郵便局で涙を流しながら立っているシーン。目に浮かぶようだ。映画のようだ。他に、河出孝雄氏(河出書房社長)、江戸川乱歩(百合子さんは直接の面識があるわけじゃないけれども「女学生のころを、ずーっと通して、私の一番愛読した本。古本屋で探しては、試験中のことも忘れはてて読み耽った、」と書いておられる)、谷崎潤一郎、高見順……とほんとうに続け様に訃報が出てくるので驚いてしまう。
六月二十二日(月)
このままのペースで行くと今週末までに終わらないので(まあ終わらなくても別にいいんだけど)今日は通勤往復&昼休み集中して読んだ。全然予想していなかった出来事が行きの電車内で読んだ部分に書かれていて悲しくなった。花ちゃんが近くにきても宿泊先に泊まったりしているのは学校行事なのか、それにしては昼間自由に親と行動しているなあと思うがそういう細かい説明はない。あくまでも公表するための日記じゃなくて自分の日記として書かれているんだなあ、とこういうところなどで時々再認識させられる。でも感情的にならずに端的にはきはきとまとめられているんだからお人柄とか知性を感じるなあ。とりあえず帰宅後は読まない。今日は260ページまで。
つづく。
■ホセ・ルイス・サンペドロ 翻訳;渡辺マキ
※以下の感想はこのお話が大好きだという方はくれぐれもお読みにならないでください。
ネットで表紙買いしたら全然予想と違う話がきてしまった。あらすじとか紹介文もロクに目を通していなかったからなのだが、だって読む前にあらすじ読む習慣ないんだもの。ネタバレされてイタい目に遭ったことがあるからつい避けちゃうんだもの。
正確にいうと、表紙プラス著者の国籍買い、だ。スペイン文学でこの表紙。これはまた新たなる分野を啓く傑作の予感がするぜ、てなわけである。
ところが実際読んでみたらめっちゃベタで一方的な「ハートフル・ストーリー」だった。いや、別に良いんだけどねハートフルで。スペインだけでなく、ヨーロッパ各地でベストセラーになってるらしいから、世界のみなさんこういうのが大好きでらっしゃるみたいだしね。
だけどわたしはこういうの求めてなかったっていうか。だってこの表紙ですよ? もうちっと不思議要素・ファンタジック要素・あやしげな魔法的要素あるいはブラックな香りとかすると思うじゃない。タイトルも「エトルリアの微笑み」なんちゃって謎めいてるし、羊が家を抱き込んじゃってるんだから。絶対まっすぐには進まない、妖しい家のおもしろファンタジーと思うでしょうが。
……ええ、すべてはアラスジ文も読まずに思い込みで発注かけるわたしが間違っているんですけどね。
「出版社/著者からの内容紹介」に目を通していただければ世間的にこの小説がどういうふうに評価されているかが簡潔にまとめられてある。
ここに引用してもいいが、わたし個人としてはそれを丸呑みできなかったのでやっぱ止め。
たしかに表面的に読んだらそのまんまなのかもしれないが、だけどそれだけじゃ不公平でしょうが。このあらすじは老人の立場からしかモノゴトを見ていないでしょうが。わたしは老人の見解もわからんではなかったが突然田舎から出てきたあらゆるモノゴトに対するスタンスの違う舅に悩みつつも一生懸命努力しているお嫁さんのことが気の毒で仕方なかったぞ。
そりゃこのお嫁さん、自分の仕事とか世間的な地位・名誉にこだわりすぎの面もあって俗人間だなーって感じがしないでもないけどでも社会人だったらある程度そういうこと考えナシではいられないでしょ。ご近所のお店のおかみさんとうまくやりあっていくのとか、大事でしょ。都会に出てきて全部田舎のほうが素晴らしい、ミラノのいいところなんか最初から探そうともしない、息子が選んだお嫁さんのすることなすこと気に入らなくて全否定って、それはあんまりにも心が狭すぎでしょうがっ。
出てくるのは主人公が好きな人間とそうでない人間の2種類にくっきり分けられる。主人公が気に入った相手からは必ず同様あるいはそれ以上の好意を寄せられる。若い元気な娘さん、色っぽい妙齢の奥さん、非常に話の合う知的な寡婦。彼が好きな人間は彼の見識を認め、揺るがすことのない存在に限られる。若い青年からちょっとした尊敬の念をもたれたり、民族学の授業に招かれて好きなことを喋って自尊心を満足させついでに憎たらしい息子の嫁にぎゃふんといわせる。
ああ、こういう主人公に都合の良い展開がそれとなく随所に塗り込められた、主人公に同化して読みさえすればしあわせを味わえるっていう小説群があるよなあ(遠い目)。
この本を書いたのは経済学者としても有名なじーさんらしい。
ふっ、さぞや周囲にはイエスマンしかいなくて誰も彼に面と向かって意見を言えるひとはいないんでしょうね、いても聴く耳持たないんでしょうね。けっ。なにが「老人と家族の心の軌跡」だ、いっこも歩み寄ってねーじゃねーかよっ。孫が可愛くてじーさんが軟化する話なんかいまさらぐだぐだ語られんでもそこらにいっくらでも落ちてるネタなんだよっ!
す こ し は ひ ね れ 。
舅に悩まされてるお嫁さん、そうでなくても女性全般にこの話がウケるのかどうか聞きたいところだ。
翻訳小説 |
本の雑誌社
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■新元良一
『翻訳文学ブックカフェ』の著者が2001年に出した本。
翻訳者との対談をまとめたそれに対し、本書は原著者に直接インタビューしている。ただし、対談集ではなく、それを踏まえたうえで書かれた書評・ブックガイドなので、細かなふたりのやりとりなどは明確にされていない。エッセンスだけを抜き出してあるという感じだ。
230ページほどの薄い本なのに27人の作家について書いてあるんだからまあ「浅く広く」になってしまうのは当然か。内容も、「作家」というよりはその作家の書いたある1作に絞って書かれてある。入門書というか、スタート地点的なノリか。しかし何よりご本人と直に会っているというのが説得力がある。
本書で採り上げられている作品は以下のとおり。
「ガープの世界」「彷徨う日々」「アメリカン・サイコ」「王国と権力」「殺人容疑」「フロベールの鸚鵡」「パディ・クラーク ハハハ」「イリワッカー」「ぼくが電話をかけている場所」「キャッチ=22」「この世を離れて」「シングル・マザー」「ここではないどこかへ」「マーティンに捧ぐ」「交換教授」「最後の瞬間のすごく大きな変化」「港湾ニュース」「ハイウェイとゴミ溜め」「ドリンキング・ライフ」「グロテスク」「心臓を貫かれて」「巡礼者たち」「フリーダムランド」「アンジェラの灰」「プッシュ」「アメリカの鳥たち」「ねじまき鳥クロニクル」
正直既読作品は5作ほどで、しかも読んだのがだいぶまえなので内容の細かいところを忘れているというのもあり、打てば響くっていう感じじゃなかったのだがほんといろんなジャンルの作品を読み込んでおられるなあ。2001年当時話題だった作品のラインナップだなという資料的な意味もあるだろう。
それにしても最後の村上春樹がなんで入ってるのかよくわからない……他はみんな翻訳本なのにね。「ねじまき」も別に英訳されたのを改めて読んで、とかなのかと思ったら普通に日本語で書かれたものについて書かれている。
書評 |
■村上春樹
おそろしく周到に用意されたものである。
文学作品として抜かりないというのはこの作家に限って殊更とり上げるまでもないことだが、その出版までの情報管理、出版されてからのメディア戦略などやはり”村上春樹”と”新潮社”という超一流のブランド同士がタッグを組んだときの効果は凄いものがあるなという感じ。
結果的に『1Q84』は売れに売れている。こんな売れ方をしたのがちょっと前にあったなと思ってそれがなにかというと宇○田ヒカルの最初のアルバム"First Love"だった。
もちろん書籍でベストセラーというのは他にもたくさんあるし「ハリー○ッター」なんかもそうなんだろうがあれは多分作品そのものの人気だけで売れている。だけど"First Love"も今回の『1Q84』も純粋な作家・作品人気だけで売れているという感じがしない。もちろん作品そのものの魅力も素晴らしいのだが、それに加えてマスコミの話題性があって、ひとびとの好奇心が煽られる下地があって、流行に乗り遅れるな的な大きな波が作られているような気がするのだ。たとえば弟に村上春樹の新刊がやばいくらい売れている、と言ったら彼はこう答えた「ノーベル賞にもっとも近いだとか、卵のあれ(エルサレム賞受賞スピーチのことだ)とかで関心が集まってるからだろう」。
うーん、たぶん、ザッツ・ライト。
まあそんなことは単なる本好きの一読者にとってはたいていはどうでもいいことである。だけど今回に限ってはそうでもないかなという気がしないでもない。何故ならこの小説の中である作品がベストセラーになる展開があるからである。
その現象は物語の中である種の大きな役割を担っている。これは単なる「出版」であっては意味が無く「売れまくる」「話題になり、社会にある程度の影響を与えるくらいは売れる」ことを狙って計算された上で出される。そして期待に違わずいやそれ以上に売れる。――そういう物語を読みながらわたしは今まさに手の中にある現実の書籍がベストセラー小説であることを知っている。
これが面白かった。そのことで物語が現実を少し巻き込んだ形で広がっているような、そういう不思議な感覚を味わったからである。
これは読者皆がそう感じるものなのか、作家や編集者がそこまでの効果を狙って仕組んだものなのか、そういうことはわからない。だけどもしわたしが編集者ならば「この作品はベストセラーにしなくてはいけない」と考え使命感に燃えたと思う。それは世界的に実力も人気も高い作家の久しぶりの長い長篇小説の出版である、ということだけではなしに、小説を愛する者のひとりとして、「この小説を活かす舞台装置としてベストセラーの状況で読まれることが望ましい」と悟るはずだからである。
妄想? うがちすぎ? ――そうかも知れない。でも、それくらい考えられて大事に準備されて出版されているなという情熱は感じる。
もうひとつ、この作品が売れまくることで社会的にある種の役割を果たしてくれるといいなと思ったことがある。ものすごく乱暴なことを承知のうえでまとめるとこれは家庭内暴力(いわゆるDV)と新興宗教・カルト宗教というものの一面を「卵」の立場に立って書いてある小説である。だからわたしは思ったのだ、「これを読んで、奥さんに暴力をふるっている男が反省してその行動をやめてくれたら良いのにな」と。おそらく暴力は日常化しているのだろうし、感覚は麻痺しているのだろうし、そういう男は自己を顧みたりあまりしないような気がする。でもこれだけ売れている小説なら。ひょっとしたら何気なく話題だからと手にとって、読んで、それでガクゼンと……自分の足元をみつめてもらう、そのきっかけになりはしないだろうかと。
ドメスティック・バイオレンスを行うような男は「村上春樹の小説なんぞ」というスタンスでもって読まないような気も、するのだが――。
タイトルをちらっと見たとき一瞬「IQ84?」と思ってよくみたら「I」ではなくて「1」なのだった。村上春樹の小説は諸外国で読まれているがこのタイトルは「9」と「Q」を「キュウ」と読む原語でないと通じないよなあ、翻訳はどうなるんだろうとか思ったり。
この小説で書かれるのは現実の1984年とは少しずつ違った1Q84年の日本である。違ってはいるけれどSFのパラレル・ワールドのような根本的な差異ではなくて、でも明らかに非現実的なある種の力が働いている世界である。青豆という苗字を持つ女と、川奈天吾という男が交互に出てくる章の主人公となっている。BOOK1の300ページを過ぎたあたりからこの物語の仕組みがじわじわとわかってくる。
それにしてもこのひとの小説には昔から不必要なくらいお色気シーンがあってそれがあんまり好きではないのだが『1Q84』にも随分そういうのが描かれている。ある程度は人物の背景とか状況を描くために必要かなと思わないでもないがそれにしてもうーん、他の作家を読んでいてこういうことは考えないからなあ。なんなんだろうなあ。エッセイなんかのイメージだとこういうお色気シーンを書きそうな雰囲気じゃないんだけど。
そのせいとばかりは云えないけれど、おかげで主要人物たる青豆さんになかなか感情移入できなくて彼女の章を読むのが最初のうち結構苦痛だった。途中から好きになっていったけど。そういえば青豆さんの下の名前って出てこなかったような気がするんだけどなんでかなあ。
この小説はある意味で「定石どおり」書かれたものであるとも思う、少なくとも途中までは。
というと語弊があって、型に嵌った退屈なものを連想させるのかもしれないがもちろんそういうことではなくて、すごく大きな意味での、小説がきれいに成り立つための公式があるとしたら、それをきちんきちんと押さえていかに完成形が美しいものになるかに隅々まで神経をはりめぐらしてある小説だ、ということを読みながらびしばしと感じたのである。具体的にいうと途中まで伏せられている謎とかある人物の正体なんかはその公式に沿って考えればおのずと導かれる、そういう書かれ方をしている。もちろん全部予想がつくとかそういうことを言っているわけでは全然、ない。
この小説には作家の卵が出てきて、編集者が出てきて、というのがあって、後者は特に安原顯さんのことを連想せずに読むことは難しかった。少なくともわたしが勝手にイメージしている安原さんの像にかなり近くて、興味深く読んだ。
ネット上の噂でこれはBOOK3、4があるだろう、というのを散見したがどうなんだろう。2巻で少なくとも純文学としては完結しているし、続きがあるとしたらそれはまた別の問題になってくるような気もする。天吾とふかえりにまた会えるならそれはすごく嬉しいが。
とりあえず、この感想文はヤナーチェックのシンフォニエッタをBGMに流しながら書いた。ティンパニ大活躍だね、ほんと。
純文学 |
■三浦しをん
帯に大きく「林業っておもしれ〜!」とある。これはまさにそういう小説である。
『風が強く吹いている』は駅伝、『仏果を得ず』が文楽、そして本作が林業。いずれもある分野を深く観察・取材してそこからインスピレーションを得て「○○っておもしれ〜」的な、萌えというか情熱を読み手に届けてくれる作品たちだ。
これらを仮に”三浦しをん取材三部作”と呼ぶことにしよう。って、今後もこのタイプの作品を書かれる可能性がけっこうあるので勝手に括ってもあんまり意味はないのだが。そもそもこの作家は良い意味での”妄想作家”だと思っていたのでこの種の作品が出てくるたびにちょっと違和感を抱きつつ本を手に取ってきたのだがこの先もこういうのが増えていくのなら認識を改めないといけない。でも彼女はヲタクだし、ヲタクは”妄想”が大好物だし、彼女のエッセイがそれを証明しているし、無から有を生み出す才能があるタイプの作家だと思っていたので、って論拠が薄弱だけどね……。
この作品の舞台は三重県の山奥にある村となっている。巻末の謝辞をみれば尾鷲という地名も特定できる。近畿地方の地図をみていただければわかると思うのだけれどその南部はすごくおおざっぱにいうと和歌山と三重が両側から回ってきて握手しているみたいな感じになっている。ちなみにその融合点よりだいぶ上に奈良の吉野がある。三重の南部も和歌山の南部も行った事はないが吉野で相当な山奥といった感じである。尾鷲というところがどういう環境か、なんとなく想像できなくはないが、この小説を読むと本当に山中心のひとびとの生活でとても現代のこととは思えないくらい自然と共存していて、自然を畏怖し、敬愛し、そこに入らせていただいて樹を育て生きている、というスタンスがあって。正しい、というと頭でモノ言ってる感がしてどうも違和感があるのだがとりあえず素晴らしいんである。なんていうか……ことさら「自然を守ろう!」「環境破壊反対!」「地球のためにエコライフ!」などと大仰に構えてスローガン掲げるんじゃなくて、「んなの、あたりまえのことや」「こういうときはこうするもんや」的なね。ナチュラルなのだ。肩に変な力が入ってない。アタマじゃなくて本能でそう思ってる。自然が「大事」なんじゃなくて自然が「有難い」、という感謝の気持ちが前にきている感じ。ああ本来こうあるべきだよなあ、ってしみじみしながら読んだ。
横浜の高校を卒業し、特に計画もなにも持っていなかったらしい主人公・勇気は母親と担任教師の陰謀(?)によって突然三重の神去村という場所に放り込まれ、あれよあれよというまにチェーンソーや斧を持たされ山に分け入って樹に臨む、という生活に入らされる。もちろん、最初は反抗し抵抗し脱走など試みるがいかんせんとんでもない山奥でケータイも通じないような地域なのでままならない。なんだかんだ言いつつ山に引っ張っていかれる。でもそうこうするうちに、山や、村のひとびとに徐々に馴染んでいって……。
勇気はなんのかんの言って素直というか、目がまっすぐな少年だと思う。しかもまだ世間ズレしていないまっさらの状態だったから物凄く吸収率が高くて、林業の世界に溶け込んでいく感じがそれこそ若木の成長をみるような感じで伸びやかで健やか。村に美人のおねーさんがいて彼女に惚れてどうこう、というのは三部作いずれにも見受けられるお約束的パターンで、これは「スラムダンク」の桜木花道がハルコさんに惚れてバスケを始め、やがて本気になりやめられなくなるというのと同じ少年漫画の王道である。なんでかこの三部作の恋愛は全部少年漫画っぽいんだよな。変な恋愛のほうが得意な作家さんだと思うのに、取材先のひとたちに配慮してんのかなあ……。
実際問題林業生活は厳しいし難しいし、誰にでも飛び込める世界ではないと思うがでもこういう生活というか気持ちはやっぱり「基本」「基礎」としてちゃんと心の中に置いておきたいと思う。
あ、花粉症の方が春読むと体中がムズムズするかも知れないので要★注意。
大衆小説 |










