
■樋口一葉
東京は吉原の周辺の下町情緒あふれる短篇。
主人公・美登里は、売れっ子の花魁を姉にもつ、おきゃんで姉御肌の美少女。まわりには取り巻きのような少年、少女がいつも集まって毎日にぎやかに遊んでいる。
そんな美登里は、寺の息子である信如にほのかな恋心を寄せているが、時代柄や、仏に仕える身であることから、信如は美登里に関わろうとしない。そんな折、子ども同士のグループが対立し、信如は、美登里と対立する方のリーダー格に仕立て上げられてしまう。
周囲の取り巻きの手前、信如をののしる美登里だが……。
姉を花魁にもつ美登里は、彼女もまたいずれは花界に身を沈めることが約束されている身であった。
初花を迎え、その日が近づく美登里、そして坊主としての修行のため、町を出ていく信如。
二人は、互いに想いを秘めたまま、それぞれの人生のレールに沿って生きて行かねばならない身なのであった――。
まさに、流れるような、よどみない和文章がつらつらつらーっと続きます。慣れないときはやや読みづらいかもしれませんが、辞書などを傍らに置いて、読んでみてください。
思春期の、郭界隈の下町の少年少女の遊ぶ様、会話のやりとりなどが、生き生きと描かれています。また、主人公・美登里と、寺の息子信如との淡い恋心、お互いなんとなく視線を交わすだけのその切なさなども、読みどころでしょう。
「たけくらべ」とは「背比べ」のことです。
名作偏愛日記 〔濫読篇〕
|HINOKIasunaro| 20060808

■志賀直哉
志賀直哉というと「ありのまま」である。
私小説と俗に言うが、太宰などの「私」の書き方とは随分違って、一歩距離を置いたような感じがする。
父親との確執を描いた長編『暗夜行路』、その続編とも言える『和解』などが特に有名だが、その他短篇では浮気をしてそのことを書いたりして奥さんを怒らせるばかりではなく、その”怒った”事件までまた小説にしてしまったりしている。
ある意味徹底している。
作家の奥さんって大変だなと思ったものだ。
この人は”小説の神様”とのあだ名を持つ。
『小僧の神様』なる作品をもじったものだが、例えば『城の崎にて』は、本当にどうという事件のない人生の1コマの写生を書いているだけなのに、何故か読ませる。まさに神様なのであろう。
事故の後遺症で背中を痛めた「私」は、温泉療養のために城崎温泉を訪れる。
その旅館の窓から偶然に目にした小動物の死や、散策の途中で気付いた風もないのに動く樹の葉の動きなどから思索した「死生観」を語る。
何気なく書かれていますが、そもそも温泉に来ることになった原因の事故によって著者は「死」について考えるところ多かったのだろう。
「キノサキ」は一般的には「城崎」と表記されることが多いが、この作品タイトルは「城の崎」。
名作偏愛日記 〔濫読篇〕
|HINOKIasunaro| 20060808

■森鴎外
都の高瀬川を罪人を乗せて渡るお役目の同心が、弟殺しの罪人を送っていきながら会話をする。その意外な内容と、同心の心の動きを描く問題作。
罪とは、何なのか?
治らない病に苦しみ、兄にこれ以上の迷惑を掛けられない、と自殺を図った弟。だが、死に損ねてしまい、血だらけでもがき苦しみ、兄に刺さっている刃物を抜いて欲しいと頼む弟。
その頼みを聞き入れることはすなわち弟の死を意味する。迷いに迷う兄……。
あの時代で既に安楽死の問題に取り組んでいた鴎外の先見の明には驚くばかりです。
また、この作品では、人間の「欲」についても深い考察を与えてくれます。
純粋に「文学作品」としてよりも、その内容の社会性の高さから、問題提起として取り上げられることが多いのでは。
鴎外の作品は、得てしてそういう性質のものが少なくないような気もしますが、これは特にそうでしょう。
余談ですが、江戸時代というのは現代の感覚からすると随分刑が重いような気がしますが、どうですか?
テレビの大岡裁判などはほとんどフィクションだそうです。
でも、この『高瀬舟』で取り上げられる問題は現代でもなお司法判断の難しいところで、議論の分かれるところです。
名作偏愛日記 〔濫読篇〕
|HINOKIasunaro| 20060808

■安部公房
『砂の女』『箱男』といった、超現実の世界を描くことで現代社会を鋭く切り取り、風刺しているかのような安部公房の小説。
その発想の基となるのはいったい?
――というようなことが少し覗ける気がするのが本書。
著者自身が見た夢を綴ったノートやテープを元にして描かれたこのエッセイ?はどこまでが現実でどこからが夢なのか読んでいると不思議な気分になってくる。
著者の奥さん(?)が作ったオブジェの写真が挿絵がわりに何枚か入っていて、ますます夢と現のハザマ気分を高めてくれます。
たとえば月が追いかけてくるとか。
どぶに象がいるとか。
なんだ、夢日記かと思いきや、あなどるべからず。
これがさすがはああいう小説を書く人の夢らしく、実におもしろいというか奇妙というか怖いというかでもどこかで現実的というか理性的なのが変わっているというか。
しかも夢なのに夢と断らないでいきなり描いてあったりするので結構とまどってしまう。普段からこんなことを考えているんだろうか???
睡眠儀式の、西部劇のような岩場の上に立ち、下を通る馬上の人を次々に殺めて行くエピソードは強烈だ。
そこでみる夢は悪夢ではないのか?(笑)。
私はこの本を読んでいるとカフカを思い出します。
※私が読んだのは新潮文庫版でしたが画像が無かったので件の作品が収録されている全集を。
名作偏愛日記 〔濫読篇〕
|HINOKIasunaro| 20060808

■福永武彦
まだ幼い少年が主人公。
彼は両親から「沼」に行ってはいけないと言われている。
でも彼は興味津々なのだ。
だからこっそり沼に行ってしまう。
そこは小さい沼で、真ん中に小さい島がある。
でも坊やにとっては大きな沼だし、大冒険なのだ。
そこで小学生たちが上に張り出した木の枝につかまって島へ飛び移る様などを興味津々で見たりしている。そしてある日そこで知らない小父ちゃんに会って少し遊んでもらう。
そんな夜、坊やの両親がけんかをする。母親は父親を「あなたはちっとも坊やのことを心配してくれない」と責める。そんなやりとりを聞いた坊やは自分の本当の父親はあの小父ちゃんだと思ってこっそり家を抜け出して沼に行ってしまう……。
この短編の一部は高校時代に受けた模試の現代文の問題として私の前に姿をあらわした。
「……!」
試験中にも関わらず、私はびっくりしてこの世界に目を見開いた。私が求めていた「小説」がここにあったと思った。
「こういうのを書いてくれる作家がいたのか」と。
本屋でこの人のを買ってきて、いくつか読んだ。
どれも、素晴らしい感性によるもので、胸に染みた。
こんな一歩間違えば病理的ともいえる心理をこれでもかとばかり織り込んだ作品、しかも押し付けがましくない美文で綴った作家がいたのかとゾクゾクした。
ところがこの福永武彦の文庫をいくら探しても「沼」は収録されていないのであった。古本を買う習慣もなかったし、探し方も知らなかった。
大学生になって全集でこの作品に再会し、迷わずコピーを取った。そして初めて全体を読んだ。
わずか数ページの短い作品であったがラストがまた救いが無いほど残酷であった。
しかしこれはこうなるべくして存在したのかもしれないと思った。
或る意味でどこか太宰治を思い出しもするのだがそういうと誤解があるかもしれないな……。
ちなみに「沼」は新潮社の福永武彦全集の第4巻に収録されています。
この↑上にある画像の書籍にはたぶん収録されていないと思います。すみません。
名作偏愛日記 〔濫読篇〕
|HINOKIasunaro| 20060808

■中島敦
中島敦といえば、高校の国語の教科書で『山月記』を学ばれた方も多いのではないでしょうか。虎になっちゃうアレですよ。あの、漢文のような漢字だらけの文章に抵抗感をもった方もいらっしゃるかとは思いますが、でも、よく思い出してみてください。
話の内容は、めちゃくちゃ面白かったでしょう?
そうなんです、文章の硬さで躊躇してしまう中島敦、でも実は本当に面白い小説を書く作家なんです。
私は、高校の時教科書で読んで、
「この人の他の作品も是非読みたいっ!」
と思って本屋に走りました。
期待通り、いえ、それ以上でしたね。
極上のストーリーテラーですよ、まさに。
さて、『名人伝』。
おもしろいです。名人とは何か、なんていう堅ッ苦しいものではありません。
そんなもんじゃないです、もう凄すぎます。ユーモラスというか、寓意的というか。
弓の道を目指す主人公が、著名な師に教えを請い、修行する。
(その修行の内容がまたおもしろい)。
そのうちに、師を超える実力を身につけた主人公は、師を殺そうとするが、師は危うくそれを阻む。そして、そこで新しい師匠を紹介する。
ところがこれが、ただの師匠ではなく、実に風変わりというか仙人のようというか……ともかくも、そこで更に修行を積む主人公。
月日が流れ、修行を終えて山を降りてきた主人公。まるで、乞食同然の身なりである。
その彼に、ある人が弓を見せたところ……?
(これ以上は、読んでのお楽しみにしておきましょう)。
名作偏愛日記 〔濫読篇〕
|HINOKIasunaro| 20060808

■太宰治
太宰治の文学は”はしか”に例えられます。
まあ若い頃にカーッと熱中して、数年後読み返すとなんとも照れるというか、恥ずかしいというか、……そのさまを言ったものでしょう。
太宰の文章は独特で、私たち読者に直接話しかけてくるような錯覚を覚えさせます。だから、「まるで私のことがわかってくれているみたい……」
と熱狂的なファンになるか、あるいは生理的に受け付けなくて大嫌いになるか、極端な作家だと思います。
でもきちんと読めば、この作家がいかに言葉のひとつひとつを吟味して書いているかが分かり、驚かされます。
まるで、詩を書くかのように書かれたそれはとても美しい日本語で成りたった文学なのです。
太宰治、というとその内容ばかりが取りざたされることが多いのですが、語彙の豊かさといった面からスポットを当ててみられるのも良いかもしれませんね。
さて、『富嶽百景』ですが。
太宰治の文学はおおまかに言って、
前期の青春の影
中期の落ち着いた時期
死に向かう破滅への時期
の3つに分けることができると思います。
暗い、麻薬、人間失格、心中、……とロクなイメージがない作家ですが、中期には明るいユーモラスな作品が多く生み出されています。
有名な『走れメロス』も中期ですね。
この時期は結婚したり、作家としても安定してきた時期。『富嶽百景』は、井伏鱒二氏に紹介された奥さんとのお見合い(顔合わせ程度?)のシーンもあります。
富士の見える茶屋の娘さんとのやりとりなどが生き生きと描かれたこの作品は、読み終えた後もとても清々しく、さわやかな印象を与えてくれることでしょう。
「富士には月見草がよく似合う」というフレーズが有名で、この文句は実際に石碑にされて今も富士を見上げています。
名作偏愛日記 〔濫読篇〕
|HINOKIasunaro| 20060808

■井上靖
実はこの小説を読んだのはつい最近である。
でも"あすなろ"の木の名前の由来のエピソードとなったこの小説に出てくる少女の台詞は小学生のときに担任の先生だかに教わって、非常に感銘を受け、よってよく覚えていた。
冴子という19歳の娘がこう言うのである。
「あすは檜になろう、あすは檜になろうと一生懸命考えている木よ。でも、永久に檜にはなれないんだって!それであすなろうと言うのよ」
読んだときに書いた感想。
【もっと自伝小説的なものと思っていたけど、そうでもなかった。最初の子供時代の部分だけ知っていてここが祖母に引き取られて2人暮らしという設定だからてっきり『しろばんば』路線だと思い込んでいたのだ。「翌檜」の名の由来を元に一人の人物の人生と絡ませて描いた小説、というんだろうか。想像していたような理想論でも感動話でもなかった。いわゆる、普通小説?別に特にヒトに薦めようとは思わない。まあ勿論、大作家だし愛読者はヤマとおられるんだけど。私にとっては悪くもないけど良くもない、って感じだったなあ。しかし"翌檜"の由来話は好きですよ。だから名前にしてるんだしね。】
もっと若いとき(ハタチ前後)で読んでいたらもう少し感情移入できて感動していたような気もする。本にも読みゴロというものがあるんですな。それぞれの時期に影響を与える女性が登場するのがポイントというか特徴というか「そういうヒトだったんだなー」というか……。しかも年上の女性が多いです。
たぶんポイントは「ひのき物語」でなく「あすなろ物語」であるということ。
つまり主人公は今の自分に満足できていない。
大学時代などはだけれども「じゃあどうしたいのか」の答えすら見つけられない。
社会人になり、現実的な"スクープ"を追う生活になるが、明日は今の自分ではない、何ものかになろう、とあがいている根本は変わりないように思える。
最終章でオシゲと関わりをもつその生き方は既に檜を目指すことすらあきらめた、自堕落なものすら覗わせる。そしてそれは「日本全体がそうであった」という。
この小説は「あすは檜になろう」と言いつつ「檜とはどういう生き方なのか」がハッキリ示されるわけではない。スポーツ小説のように明確な目標があるわけではないのだ。そして人生ってそんなものではあるまいか。
名作偏愛日記 〔濫読篇〕
|HINOKIasunaro| 20060808

■堀辰雄
主人公の青年「私」は、そのフィアンセの少女節子が人里離れたサナトリウムに移って療養するのについてゆき、共に日々を重ねる。
めぐる季節、常に死を念頭に置いているようなはかない、けれどそれゆえにより美しい想い出を紡いでいくような二人の言葉のやりとり。
自分がいつまでも生きられないことをどこかで悟ってそれでもなお愛する人を失いたくないという思いで泣き言を言ったり、我が身を嘆いたりする少女、それをなぐさめつつよりいとおしく思う「私」。
堀辰雄はロマンチックの代名詞のような作家だと私は思う。
詩の世界といいますか。
少女ロマンスといいますか。
高原の、爽やかな新緑、白のワンピース、
というイメージですかね。
まあもちろんそれだけではないんですが、例えば登場人物の台詞の丁寧さなんかひとつ取ってみても美しいというか奥ゆかしいというか。
『風立ちぬ』はそんな著者の真骨頂とでもいうべきお話で、舞台がサナトリウムですよ。
そこで病弱な美少女とその婚約者の青年が過ごす四季を描いているんですよ。
も〜、美しいったらありゃしない。
絵のようですな。しかし、この一歩間違えれば限りなくキザで非現実的な設定を、見事に描ききって自然に嫌味なく読ませてくれるのはまさに筆力とそれにみあった語彙のなせる技でしょう。
名作偏愛日記 〔濫読篇〕
|HINOKIasunaro| 20060808

■川端康成
「てのひらのしょうせつ」と文庫本などにはルビが振ってありますが、学生時代の友人が言った、「たなごころのしょうせつ」という読み方が私は好きです。
掌に乗ってしまうくらいの、小さなお話、の意。
1つのお話はほんの数ページ。でもそれぞれに風景が広がっている。
今風に言うと、ショートショートですね、それが122篇収められた、宝の小箱のような1冊です。
1編1編が、味わい深く、ほんのりとした暖かみを持っていて、今のSSのような寓意的なストーリーとはちょっと性格が違うように思います。
さすがに書かれた時代を反映していて古いもの、今では通用しないような感覚を描いたものもいくつかありますけれども、それはそれでまた考えされられることがあるのです。ほんの数行なのに生々しいものを眼前に突きつけられてウッ、となるものもあります。
純文学の、結晶。
人々の、生活の断片、日本の風景の1コマ。
いろんなタイプのお話が入っているので、好きなものもあまり好きでないものもいろいろあるでしょう。眠る前に1つずつ読んでいく、というのも楽しいでしょう。ついつい次のも読んでしまいたくなったり。
グループ分けすると、自伝的なもの、伊豆関係、浅草関係、シュールな表現で人間の本質に迫ったもの、写生風のもの、物語性の強いもの、夢の世界――といったふうになるようです。
川端康成といえば『雪国』などのイメージが強いでしょうが、こういう作品もあるのです。
「長い話は読めない」という読書苦手派にも「ふつうの小説には飽きた」という読書家さんにも両方薦められる名著だと思います。
名作偏愛日記 〔濫読篇〕
|HINOKIasunaro| 20060808











