バーナム博物館 (白水uブックス―海外小説の誘惑)
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スティーヴン ミルハウザー
白水社
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白水社
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■スティーヴン・ミルハウザー/翻訳;柴田元幸
10年近く前になるか、わたしが柴田元幸さんを知ってマイブームになった頃で、ポール・オースターなどを読んで翻訳文学がこんなに読みやすい文章になるものだろうか、と目を見開いていた頃に同じ翻訳者の手になるミルハウザーにも手を延ばしたことがあった。『三つの小さな王国』という濃い緑の額の中に鮮やかな白地、その中に不思議な絵があるという美しい装丁に童話のような題名の書籍であったが読んでもなんだかよくわからなかった。ミルハウザーってなんだか難しいなあ、というのが正直な感想で、以来、敬遠してきた。
しかしこのあいだ読んだ『翻訳小説ブックカフェ』で柴田先生がミルハウザーの魅力を語られているのを読んでまたぞろ興味の虫がうずうずしはじめたのである。
本書には表題作をはじめ十の物語が収められている。
正直読み込むのに時間がかかり、文字面をなぞっただけでは文字通り「流れて」しまうような感じで、一言一句頭の中でいちいち映像化しながら進んでいくことで初めてその文章が意味を成す。と同時に、映像化されたその「絵」の美しさ、好ましさに思わずもう一度読み返しすことも一度や二度ではなかった。そしてそのあまりにも細やかな視点の動き、クローズアップしてコマ送りされていくまるでカメラのようなミルハウザーの描写のこだわりぶりに感心したりあきれたり。
この作家の文章を読んでいて知らず思い浮かべてしまったのは百聞は一見に如かず、ということわざである。一見すれば一瞬のことで、ぱっと網膜に焼き付けられること、でもそれを言葉で表わそうとするならば百の言葉でも足りないという。その「百の言葉」でわたしたちの前に絵を描き出そうとしているのがミルハウザーのような気がする、あ、でもこれじゃそれこそ「言葉が足らなく」て、ミルハウザーの文章は所詮一枚の絵に劣るのかということになってしまうのだけれど勿論そうではなくて、そのカメラアイのような精密な描写と視点の動きには当然ミルハウザーの意志が働いているのであり、その意志の目指すところその面白さに好奇心が刺激されたり郷愁の念を呼び起こされたり自分の中のファンタジーが満たされたりするのである。
だから自分の好き嫌いというか興味のあるテーマかどうか、というのが結構影響したような気がする。
「シンバッド第八の航海」
わたしたちは「シンドバッド」で馴染んでいる『千夜一夜物語』の中でも有名なお話で、わたしも子どもの頃児童書で彼の冒険譚には胸を躍らせた。これは七つの原典の続き、パロディーというだけではなくもう少し視野を広げて文学史的な考察なども絡めて入れ子構造のようになっている。面白かった。
「ロバート・ヘレンディーンの発明」
最初ぼうっと読んでいたときは肝心の最初のほうを読み流していてよくわからず2回目落ち着いて読み直したら凄い話が淡々と書かれていたことに気付いてびっくりした。想像力がたくましいというのは小説家なんかにはよくあることなんだろうけれどもそれで人間を造っちゃう、というのが。でも後半の流れはむしろそれを否定して心理学的に判断して読むこともできるわけで、うーんどっちで読むのが正解なんだろうかと迷ったり。
「アリスは、落ちながら」
これはどんぴしゃ。中学生の頃からわたしが好きなテーマを想像をはるかに越えた素晴らしい視点で書いてくださった。ウサギをおいかけて、穴を落ちていくアリス。穴を落ちていくときはどんなふうだったのか? そもそも穴に飛び込んだのはよかったんだろうか?
そんな疑問をアリス自身が考えたりする。面白い。そして何より、周囲のモノたちの描写、おねえさんのいる原っぱなどの描写が本当に美しくて可愛くて素敵で、ああもう大好きだー!
「青いカーテンの向こうで」
まだ幼い少年の視点で映画館という大人の空間をみたらそれはどういうふうか、という話だと思うけど正直これはあんまりぴんとこなかった。
「探偵ゲーム」
実際にあるゲームをモチーフにしてあって、ゲームの中の人間模様とそのゲームをしているひとびとの人間模様を交互に書いてある。ゲームの中のそれがけっこうメロドラマでどろどろしていてどっちがリアルでどっちがゲームだったか曖昧になってくるような感じ。このゲームは探偵ゲームというけれど推理がどうこう、というよりはトランプゲームと双六を合わせたような感じが近いのかな。
「セピア色の絵葉書」
これも大好き! ふらりと旅に出てふらりと寄った店でふと気まぐれで購入した古びた絵葉書、それが織り成す不思議な事柄。
どこか懐かしいような、わくわくするファンタジーはちょっとしたミステリーをも含んでいて。
「バーナム博物館」
贅沢な面白さ詰めあわせ、という感じのお話で、いろんな不思議なものが展示されているこの博物館に是非行ってみたいと思う。絶対間違いなくあるんです、というんじゃなくて、あるかも知れないし、ないかも知れないけど当館としては誠実に展示しているのであとはご覧になる方が信じられるかどうかです、というスタンスなのがいい。
「クラシック・コミックス#1」
アメリカの漫画ってカラーなんだけれど、ひとの表情とかがカクカクしていて単純すぎてなんだか日本の漫画とはあんまりにも違いすぎる。というのを昔『バットマン』のアメリカン・コミックをちらりと見せてもらったときに思ったものだがそれを思い出したり。
漫画を文章にした、という体裁なので頭の中でそれを漫画にして読んでいったけれどこれを実際に絵に書いたらちょっと不自然になるところも部分的にあるような気がするし、第一お話が繋がらない。「訳者ノート」を読んだらこれは有名な詩を基にしてあるそうで、なるほどその詩を読んでみればよくわかる漫画ではある。
「雨」
これは勝手にホラーとかミステリアスな展開を想像しながら読んでいったのだがこういうラストになるとはね。いやしかし夜の雨というものはこういう妄想を生み出す性質がどこかにある、と思う。
「幻影師、アイゼンハイム」
幻影師というのには馴染みがないので手品師を頭において読んだ。上手い手品をみたときこれはトリックがあるはずのものである、と考えつつもどうしてもわからないから超能力・魔法・なにかこの世ならざるものの力、といったことがふっと頭を過ぎってしまうことがよくあるがこの話はそういう気持ちを上手くお話にしてあると思う。
翻訳小説
|HINOKIasunaro| 20080818
■イサベル・アジェンデ/翻訳;木村榮一
翻訳小説をこよなく愛する友人餡ちゃんが一度ならず絶賛するので気になってアマゾンで検索したら簡単に入手できたがやってきたこれが結構な大物で。本文は400ページ余の2段組でずしりと重く、活字がびっしり詰まっている。
第1章を読んでみたがどうも勝手がわからない。波に乗れない、乗り方がわからないという感じなのだ。緑の髪の毛というのが緑の黒髪ではなくて文字通り緑色の髪の毛のことを指しているらしい、でもそんな髪の色はやっぱりありえないから比喩なんだろうかとか、頻出する指示代名詞「あの」にそりゃこれは回想の物語だからそれで間違っちゃいないんだけどでもだいたいの全体としての書き方が現在進行形だもんでどうしても「その」を予期して読んでしまってどうもいちいち躓いてしまうだとか、そういう瑣末にとらわれて肝心の物語にのめりこめない始末。
ちょっと調べたらラテンアメリカ文学といえばこれ、という『百年の孤独』の世界とこの小説を比して評価する向きもあるらしい。この時点でわたしは『百年』を読んでいなかった。やっぱ先に原点を読んでおくべきなのか。
というわけで『百年』を取り寄せこれも長い小説だったが予想に反して読みやすい内容だったのでがしがしとそれを摂取し、ちょっとだけ波乗りの方法を学べた気がした。そこでエイヤッとばかり気合を入れて改めて最初から本書と向かい合うと第2章からは予想以上に馴染みやすいいわゆる「小説らしい小説」であったので今度は最後まで読み通すことができた。それでもやっぱり普通の2、3倍時間がかかったし、内容もそのくらい濃密で実際3冊くらい読んだような気分だ。読み終えてしばらくは頭の中がぐるぐるして陶然というような精神状態になったがこれはわたしが良書を読み終えたときにしばしば陥るものである。
感想は、と聞かれたらとてもヒトコトではまとめられないがとりあえず「……や、凄かった」となるだろう。
400ページの小説で300ページを越えてからとんでもない展開が待ち受けているのだが、それまでのどちらかというとロマンス色・ファンタジックな要素のある男と女の人生模様小説が『アドルフに告ぐ』『アンネの日記』みたいな話になっていくのである。クーデターが起こって、独裁者が現れ、非人道的な扱いを受ける。まぁ、最初からまったくそういう社会小説的要素がなかったかといえばそうじゃなくて地主と小作人の関係とか富裕層とそうではないひとたちの関係とかそういった地域社会の構造、登場人物たちそれぞれの考えかたや言動の違いなども丁寧に書かれていて著者の略歴などを慮るに何かしらのメッセージを受けずにそれらを読み流すことなどできなかったわけだが、それらのことも終盤のあの顛末を読んだうえで辿りなおせばより強くその面があらためて迫ってくるわけで。
ふつう、この小説で300ページ以降に書かれているような内容はそれだけでもう独立した大きなテーマというか、それを主に据えて書かれた小説はたくさんあるわけで、そういう場合他のことも書くとしてもだいたい全体の中盤までにはそういう話に突入しているというパターンしか読んだことがなかったので、「さぁそろそろ大団円に向けてまとめに入るのかな」と思ったところに更なる大波が現れて驚愕してしまった。だけれどもそれ以前の一家の長いありようを経ての波だからこその、という面がやはりあるのも事実である。
この小説ではまず伝説的な妖精のようなローサというたぐいまれな美女が登場し、そして物語はその妹であるクラーラの話で広がりをみせる。継いでその娘ブランカ、孫にあたるアルバと三代の女性を描きながら家、地域、社会情勢などの様子、その変わっていく様などをその涙や熱い血潮の感触とともに伝えてくれるのだが、ここで忘れてはならないのがエステーバン・トゥルエバという男の存在で、この小説はこの人物の「愛を求め続ける人生」の物語でもあるのだ。
なにかといえばすぐに癇癪を起こすし乱暴だしいろんなひとに迷惑をかけるし今だったらとっくに牢屋に放り込まれているようなことを何十回としている非道で迷惑千万危険きわまりない男で、前時代の遺物そのもののような男尊女卑・支配者階級特有の思想の持ち主なのだがしかしわたしはエステーバンの言動に眉を潜めつつも嫌いになれなかった。いやそれどころかこの小説の中で一番心理描写が多いこともあって共感しやすい人物であり、そして彼を思い出して何を感じるかといわれればそれは同情であったりその身の寂しさ・悲しみに対する切なさだったりするのだ。
この小説に出てくる主な女性たちは超自然的な力を持っていたり、独特の感性を持っているなどして風変わりで、彼女らの周りで起こる出来事はまるで美しい物語のようだったりして読みながらわくわくすることがたくさんあった。ローサやクラーラは天女のイメージに近くて、そんな人間離れした女性に本気で恋してしまったエステーバンはあの手この手で愛を得ようともがくのだがどうしても愛されている、求められているという欲求を満足させることができない。娘とも心が通わず、孫を猫かわいがりするも現代っ子で新しい思想を持つ彼女は自分の手を離れどんどんと意に沿わないことをし続ける。でも、そんな彼女が苦境に陥ったときになりふり構わず助けの手を差し伸べるのはやはり他ならぬエステーバンなのである。思えば彼はいつでも彼女たちに手を差し出してきた。けれどもそれを向こうから指を絡めるようにして握り返してもらえることはずっとずっと長い間無かったのだ……。
この物語は祖母の日記を基に、祖父の助けを得た孫娘によって書かれた。
エステーバンが仕合せに生涯を閉じることができたのはその愛をたどるような作業を愛する孫と一緒にできたことが大きかったのではないか。そう思うと、ちょっとほんのりとあたたかくなる。
よかった。
なお、この小説は”愛と精霊の家”というタイトルで映画化されている模様。
翻訳小説
|HINOKIasunaro| 20080802
十五少年漂流記 (新潮文庫)
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ジュール・ヴェルヌ 波多野 完治
新潮社
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■ジュール・ヴェルヌ/翻訳:波多野完治
BBSでの交流からこの歳にして初めて読んだ。
十五人の少年が無人島で知恵と勇気でもっていろいろ冒険し力をあわせてがんばる話、という大筋は知っていたが実際読んでみて感心することしきり。
なんて健全で生活能力の高い子どもたちなんだ!!
もし遭難したのがわたしだったら1週間で野たれ死んでいただろう。はらたいらに3千点、だ(古!)。
だって野うさぎとかペンギンとか見たら「かわいいなあ」とか思うのかと思ったらそうじゃなくて「ああ食料がはねているな」「ロウソクが作れるぞ」という感じでみんなきちんと当面必要な分を淡々と殺すし、アザラシが群れていれば「ああこってりした油の原料が寝そべっているな」という目でしか見ていないしちゃんと油を摂る方法も知っているし、もちろんそこで「かわいそうだよ!」などとぬかす似非動物愛護者など誰もいない。ずいぶん小さい子どもたちもいるのだけれど泣いたりぐずったりする者もいない。
だって食べなきゃ死ぬじゃん?
ということでみんなごくごく自然に、あたりまえのこととして対処している。
しかもこの方たち銃を使えるしナイフとかも使いこなせるし、場合によって生け捕りが望ましい動物に対してはそのような技を持ったりもできる。
なんていうか、自然や動物との向かい合い方、そのスタンスをすっごくわきまえているのだ。甘やかすでもなく上から見るでもなく、生きていくうえで対等、みたいな。
そしてここが昨今の痛ましい事件を見ている身からは本当に本来はそうであるはずなんだよな、と痛感させられることなのだが、その武器を仲間うちの諍いに使おうなんてことは誰もハナから考えてもいないのだ。反目しあったり、チクリチクリと言葉の応酬があったり、時には殴りあいに発展することもあるけれどだからといって「ムカつくから刺した」なんていうことは絶対にしてはいけないことだ、ということがちゃんとわかっている。
果物をみて「あれは酒が造れる」とブランデーやなんか嗜んだりなさる。それも子どもが大人ぶって好き勝手に背伸びしているというわけではなさそうで、あくまでも食事にはちょっと必要だよね、という感じなのが。これは文化の差なのか百年前の少年はこんなもんだったのか。
しかも彼らはそのように生きていくために必要な猟や薪取りやあちこちの修繕などをする傍ら、空いた時間や外に出られない雪のシーズンなどは年長者が教え役になって勉強をすることを怠らない。
……頭が下がります。
ヴェルヌはフランス人の作家で、この話で中心となって活躍する少年がフランス人で、そのライバルがイギリス人というのはなんというかわかりやすすぎだなあと思わないでもないが、まあこれは少年向けの話だから。
解説が面白いというか興味深かった。そもそも『十五少年漂流記』というのは昔から日本でもいろんなひとが翻訳を試みてきた作品で、いちばん古くて有名なのは明治29年に森田思軒によって訳されたものなのだが、これがフランス語からではなくて英語に訳されたものをさらに日本語に直したという重訳だったそうなのだ。
でも波多野氏いわくヴェルヌの文章というのは「ダラダラしていて、くりかえしが多く、退屈をさそうもの」だから適度にこなれた文章に直された英文から日本語に直されたものが紹介されたことはプラスであったと。
そしてそんな明治の話だけじゃなくて今この、さっき読み終えたばかりの波多野完治訳のこれも
「これは、議会図書館からおくってもらった、マイクロ・フィルムの英訳本と、フランスのアシェット社からでている仏語原本とを参照しつつ、日本文になおしました。ヴェルヌのものは、すでにのべたように『文体』が唯一の欠点だといわれているくらいのものです。ですからわたしは『筋』を生かすことを第一に考えました。」
とあるではないか……!
え? てことはこれ、ヴェルヌの原作をそのまま日本語に翻訳したものではないってこと? 波多野さんが英訳を参考にしたりして文章のくどいところとかは削ったりしてかなり手を入れたってことだよね? でもじゃあなんでこの本の解説にもその他どこにもその参考にした英語版の著者の名前が書いてないんだ? それはいいのか? ウーム。
そもそも『十五少年漂流記』を探しに行ったときに創元推理文庫の同著が倍のページ数あるのは何故なんだろうとか考えていたのだけれどこの解説を読むと文章をすっきりさせたことによる影響なのかなあ(フォントの大きさなどは両方同じくらいだった)。エピソードまるまる削るとかそういうことはしていないっぽいけど、創元推理版はどうなっているんだろう。ネットで検索したら角川版も新潮版と同じくらいのページ数なんだよなあ。
また機会があったらいろんな版の『十五少年漂流記』を見比べてみるのも面白いかもしれない。
【私信】
つうさん、オススメありがとうございました! ようやく手を出しましたが読みはじめたら面白くてあっというまでした。彼らと同世代のときに読めていたらもっともっと楽しかっただろうなあ〜。惜しい。
翻訳小説
|HINOKIasunaro| 20080719
百年の孤独 (Obra de Garc〓a M〓rquez (1967))
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ガブリエル ガルシア=マルケス
新潮社
売り上げランキング: 3402
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◆G・ガルシア=マルケス/翻訳:鼓直
「やー、ついに読みましたよ凄かったですよ。」
「びっくりしたなあ、こんな破天荒でおもしろい話だったのか!」
「ねぇ。その圧倒的な存在はびしばしと感じていたものの、堅苦しそう、難しそう、暗そうというイメージだけを根拠にどんな話か調べようという気にすらなったことのなかった作品でしたが、読みはじめて数ページでびっくり。」
「題名『百年の孤独』でしょ? 積年の恨みはらさでおくべきかぁ、って感じでしょ? しかもノーベル賞受賞作で長年読み続けられている名作だもん、さぞかし重厚なご大層な純文学なんだろうと思うじゃない。」
「それがこーんなばりばりのエンタメ、しかもファンタジー色のあるフィクション続出で。巻頭の同じ名前がいっぱいある家系図みて(うあ、きたよ一族の歴史!)なんて悲壮な覚悟で読みはじめたらのっけから磁石で家の釘が抜けたとか魔法の絨毯が飛んだとか本当にあったこととしてしゃらっと書かれているんですから、」
「あれで目が醒めた。」
「肩の力が抜けましたね。ひょっとしてこれって深刻な話じゃなくて面白い話、ホントには起こりえないような不思議も入り混じった“物語”として読めばいいんじゃない? って。」
「さすがコロンビア、ラテンの国。これが国民文学として親しまれてるっていうんだから楽しい。」
「ロシア文学なんかと対照的ですよね、」
「内容というか出てくる男女もいろんな意味でラテンって感じだったし。」
「変なひとというか極端な性格してるひとが多いですよね。」
「激情型とか情熱型とか、とりあえず日本文学とはキャラが違う。色欲魔続出するし。」
「色欲魔っていうと変態みたいですけど。『貪欲な下腹』が続出するんですよね。そういう欲求が強くてまたそれをあんまり自制しようともしないっていう。たんなるひとつのエピソードかと思いきやけっこうしつこく色方面の濃さが書かれているんでちょっとびっくりしました。」
「うん、まあこれはネタバレだけどその色欲の強さゆえに最終的には滅びに至るわけだからそりゃ重要なファクターなわけだ。」
「男の人だけじゃなくて女の人も、それもひとりやふたりじゃなくて激しい欲情をもっているというね。これはラテンがそうだというわけじゃなくこの一族の特筆すべき特徴として読むのが正しいんでしょうが」
「解説によればこの作家の書くものの特徴でもあるらしいな。」
「みたいですね。そうそう、解説といえば梨木香歩さんが書かれていたのは嬉しい驚きでしたー。」
「意外なようで実は近いというか、『家守綺譚』『沼地のある森を抜けて』とかに繋がっていくものを感じるよな。」
「家族の血とか、不思議な現象とか、人間の力とか。共通するものを感じますね。」
「さっき家系図のことに触れたけどこの物語では同じ名前がどんどん継がれていくこと自体もなんか舞台装置として面白い効果を上げてるような気がするな。」
「ああ、なんだかいつまでも同じ人間の血が生き続けているような錯覚というか、」
「実際にいつまでたっても死なない女のひとも出てきたけどな。」
「ウルスラとピラル・テルネラでしょ? ウルスラは享年何歳か不明だけどある時点で既に115歳から122歳の間とされていて、ピラルもある時点で145歳、それ以上は数えるのをやめちゃってる(笑)から、ふたりとも約150年くらいい生きてたことになります。んな莫迦な、というツッコミはこの話には通用しない。」
「ウルスラさんが長いこと生きてるおかげで物語の主軸がすっきりわかって助かったかな。」
「ふつう、こういう一族の歴史を書いていったら世代交代していきますし現にこの話でも男性側はそうなってるんですけどウルスラは最初から最後のほうまでかなり長い間ずっとお元気です。」
「たまに時系列崩して先の話ざっとしたり前の話の詳細語ったりすることがあるんだけどウルスラさんがいるから安心、みたいな。――ウルスラさん死後って“宇治十帖”みたいな雰囲気ちょっと感じなかった?」
「源氏物語ですね。ええと実は不勉強で読んだことがなくて大雑把なことしか知らなくてですね・・・・・・、」
「実は私も『あさきゆめみし』しか読んだことがない。」
「………………。」
あさきゆめみし―源氏物語 (12) (講談社コミックスミミ (389巻))
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大和 和紀
講談社
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「あれは大和和紀の名作だぞ。ま、それはさておき。アマランタ・ウルスラが夫と一緒に故郷に帰ってくるんだけど、そのときの服装の描写が“文明国からきましたっ”って感じじゃない、しかも『軽やかな風に吹かれ』てさ。急に西洋小説の空気がやってきた。そのシーン読んだときにすっごい時代の流れを感じたというか、いかにマコンドが“閉じた”世界なのかというのを痛感したんだよ。」
「この物語の中でもっとも現代的でもっとも華やかで明るいイメージの彼女の再登場は本当に颯爽としていますよね。その彼女があのような宿命を負っているとは……という感じなんですが。」
「巧いよなあ。この話ってなんていうか全体的に書き方がしっかりしてるよね。」
「そうですね。破天荒なストーリーだけど、プロットはすごくきっちり組んであるんだと思います。同じ名前のひとがたくさん出てきてもどれが誰のことかエピソードなんかで自然に個性が掴めるようにしてあるから惑わないようになっているのが凄い。」
「そう、血の繋がりがあるからさっき云ったように継続性も感じるし性格も引き継いだりしてるんだけどそれぞれに印象的な出来事があるんで個々を間違えたりはしないで済むんだよな。」
「極端な性格・言動のひとばかりなので我が身のことのように感じるっていうのはあんまりないかと思うんですが物語の登場人物としては面白いっていうかそれぞれほんとに極端なんですよね。」
「ものすごい色欲が出てくる一方で何故か最終的に男性を絶対に受け入れない女の人が出てきたり、何かに邁進して家計が崩壊するような男が出てくる一方でしきたりやルールを曲げない女が出てきたりする。さっきも云ったいつまでも死なない女がいるかと思えば死んでからもずっとその場に居続ける男がいる。」
「幽霊っていう言葉は頑として使わないのかなと思いましたが。」
「使われてなかったような気がするな。」
「見えるもの、見えないものの境界が非常に物語的だったのも面白かったですね。生きているのに兵隊には見えなくて……なんてシーンもありましたし。」
「そういえば目にしたけれど証人がひとりしかいなくて、夢として処理されて歴史からも抹消されてしまうバナナ会社のあの虐殺事件はぞっとしたな。」
「ナチスのホロコーストを思い出しました。教科書にも嘘の方が乗っちゃって目撃談を家族の誰にも信じてもらえないのとか淡々と書いてあるけどすごく怖い話で、実際に過去の歴史の中にありそうで。」
「そういう根本的に不変な事象というか人間のあり方みたいなのが説得力をもって書かれているから単にクレイジーな一族の変な話で終わらず多くのひとに読まれるのかもしれない。」
「たしかに、変なひとや出来事が多く書かれているにも関わらず地に足が着いている感じがあるんですよね、うまく云えませんけど……何故“百年の孤独”なのかも後半丁寧に描かれていって、ああそうか……というなんだかさびしいような感慨が湧き起こります。」
「それにしても終わり方にはびっくりした。」
「一瞬きょとんとしてしまいました。でも全部あの羊皮紙に書かれていたんだってあって『ああ』って。そうかあれにはそういうことが書かれていたのかって、こういうまとめかた好きなんですよね。」
「きれいだよね。」
「そうなんです。つまりこの終末が著者には最終目標としてずっと見えていたわけで、それでああいうふうに物語をわあって広げるだけ広げていって沸騰させるんだけども全部それって結局最初のほうに出てきてずっと解読し続けていたあの羊皮紙の内のことで、最後にはほんとに鮮やかにしゅうっと窄めてしまう。そのあっけなさというか潔さというか。凄いとしか云いようがありません。」
「書き方とか視点とかが見事なくらい揺るがないなあっていうのは読んでる途中に何度か感心したんだけどそもそもすごいクールに計算しつくされた物語だったってことだよな。」
「長い話で、たくさんのひとが出てきて、書かれている期間はまさに『百年』を越えていて本当に濃厚。圧縮されている、という感じです。」
「読めてよかった。ありがとうございました。」
翻訳小説
|HINOKIasunaro| 20080710
ビッグ・サーの南軍将軍 (河出文庫)
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リチャード ブローティガン
河出書房新社
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■リチャード・ブローティガン/翻訳:藤本和子
いちど見たら忘れられない印象的な表紙。将軍、とあるから戦争が多少なりとも絡んでくるのか(そのジャンルは苦手だな)と思っていたが読んでみたら全然そうじゃなくて、想像もしなかった話だった。やっぱりブローティガンはブローティガン的な世界しか書かないのだ。
ビッグ・サーというのは訳者あとがきによれば「この地名はあるときは点を示し、またあるときはカリフォルニアの太平洋岸に沿って細長く帯状にのびる土地、モントレーからサン・ルイス・オビスポまでの広がりをいう」らしい。
そこでの「わたし」と友人リー・メロンの蜜月のような日々。
リー・メロンがどんな男か、ここで数行で説明するのは難しい。また、それを描いてあるのがこの小説だとも云えるので、無駄なあがきはしない。金持ちのオカマを引っ掛けて金品を盗ったり16歳の女の子とよろしくやって彼女のお腹が大きくなってくると行方をくらましたりするのでまあいわゆるロクデナシであることは間違いない。だが、真面目に考えたら腹立たしい彼もブローティガンの筆にかかれば愛すべき変人、くらいに思えてしまう、それは被害を蒙った側が実にあっけらかんとたくましく描かれているからでその様はユーモラスですらある。肯定しているわけじゃなくて、否定しているわけでもなくて、ただ「そういう野郎なんだよ」というスタンス。
リー・メロンが仲間と酔いながら立てた小屋は天井までの高さが155センチしかない。山腹の土を利用した壁、木の壁、ガラスの壁、そして壁のない壁によって出来ている。
蛙の声に悩まされ、食べ物に飢え、女に飢えている。手元はすこぶる不如意。青春だなあ、と思う。やがて「わたし」にはイレーヌという彼女が出来、リー・メロンもエリザベスと親しくなる。蛙がうるさいので鰐を買ってきて池に放したりする。麻薬なんぞやりはじめる。うーん、なんだかよくわからんけどちょっと昔のアメリカの若者、ヒッピーのイメージそのまんまな世界だ。
終わり方が唐突というか変わっていて、だけど実際の人生にはもちろん結末なんて一種類しかないわけで、そんな中で「毎秒一八六、〇〇〇の結末」なんて書かれると、そしてブローティガンが自分で引き金をひいて幕をとじてしまった事実を考え合わせると、とてもじゃないけど平穏な気持ちではいられない。
翻訳小説
|HINOKIasunaro| 20080614
愛のゆくえ (ハヤカワepi文庫)
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リチャード ブローティガン
早川書房
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■リチャード・ブローティガン/翻訳:青木日出夫
百貨店に入っているヴィレッジ・ヴァンガードの棚を眺めていたら『西瓜糖の日々』とこれがあった。うーんそういえばv.v.とブローティガンって如何にもだよなあ、でも変な題名。しかも翻訳藤本さんじゃないし、と思いつつも中を見たら「図書館」ではじまっていたので「読む!」となった。
ブローティガンにしてはものっすごい小説らしい小説だなあ、というのが感想。ストーリーがちゃんとある。あらすじをまとめられる。でもその3行くらいでまとめられるあらすじを普通の作家はこういうふうには描かないだろうな……という話でもある。
変な図書館があって、そこに務めている若い男がいて、彼は図書館に24時間詰めている。というか住んでいる、もう3年も外に出ていないがそれを苦にするふうは全然ない。
図書館がどういうふうに変かというとここは本を借りにくる場所ではなくて、ひとびとがそれぞれ好きなように書いた本を持ってきて、好きな棚に置いて帰ることができるという場所だからで、そういう施設を称して「図書館」というのは変な感じがするがまあそういうところなのだ。男はどんな時間でも本を書いたひとがやってくればその対応をし、記録を付ける。
ある日、”完璧な容姿”をした女性が図書館を訪れる。男性なら誰でも理想とするような身体をもつ彼女はしかし自分の精神とこの容器は合っていない、間違っているのだと主張し、苦悩している。
このふたりが恋に落ち、まもなく彼女が妊娠し、いまはまだその時期ではないということで堕胎することになり、男は実に3年ぶりに外の世界に出ることになる。そしてふたりして医者のもとまではるばる旅をすることになる……。
妊娠→堕胎というすじからぼんやりと思い描くステレオタイプな書かれ方とどこかちょっとずつ逸れた位置をブローティガンは飛んでいくのだけれど、それが良いとも悪いともわたしには判断しかねる。
図書館の設定を読めただけでしあわせだと思う。
解説は高橋源一郎。
原題は"THE ABORTION : An Historical Romance 1966"。
翻訳小説
|HINOKIasunaro| 20080531
■シャーリイ・ジャクスン/翻訳:深町眞理子
『ずっとお城で暮らしてる』が好かったのでもっと読みたいとは思ったが他はきっちり怖かったら嫌だなあとネット買いはできなかったのだけれど、先日久しぶりに寄った紀伊國屋で手に取ることができて冒頭を読んでみたらいけそうだったので購入した。ちょっとサキを思い出させるはじまりかた。翻訳はベテランの深町さんだし(と思ったら、解説に深町さんの処女訳作品だとあってびっくり、まあ新装版出版にあたって全面改稿なさったそうだが)。原書は1949年に出版され、日本では同じ早川から1964年に〈異色作家短篇集〉として上梓されたそうだ。そのあたりのことなど含め内容にも触れた深町さんの「駆けだしの頃――解説に代えて」はなかなか興味深い。中でも、
「元版が出て以来の四十余年のあいだに、わが国の翻訳出版をとりまく状況はずいぶん変わりました。なにより、この〈異色作家短篇集)におさめられるような作家・作品が、とくに”異色”でも”奇妙な味”でもなく、ごく普通の小説として受けとめられる土壌が出てきています。」
として、シャーリイ・ジャクスンも、
「恐怖小説の書き手としてだけでなく、人間性の一面を鋭く切りとる主流文学作家のひとりとして、もっと読まれるといいと願っています」
と書いておられるのには大きく頷いてしまった。
怖い怖いと書いてあるけどこの程度の怖さならたぶん現代の読者ならミステリーや普通小説でもばんばん行き当たっているだろうし、実際問題そっちのほうがよほど怖かったりする。だから私はそれよりも、ジャクスンの描写の細やかさ、「神は細部に宿る」という言葉をひしひしと感じさせる、ある結末にむけて周到に書き込まれるデティールを堪能することをこそ薦めたいのだ。
いやー、『ずっとお城で』の庭の描写で「これは、」と思ったけどやっぱりこのひとはすんごい細かいところまで目が行き届いたひとだわー。
だからこそ、部屋の隅々まで描いたり、ひとの心の奥底にひそむ残虐性や嫌な部分を実に鮮やかに描き出すことができるんだろうなあ。んでこのひとはその「怖さ」を頂上までは書かずにでもじんわりと想像するには充分な距離まで引っ張っておいて放置するのが好きみたいで、読み手のアタマの中で恐怖度が違ってくるという。
本書には22ものお話が入っているが、違う話なのに同じ名前の別人、キャラクターの造形がかなりリンクしている感じのひとが何回も登場する。なんなんだろう、と思っていたけれど解説を読んで納得した。この短篇集を読んでいると星新一のある種のショート・ショートを連想したけれど、そこに女性作家ならではの空気をまとっているのでまた一味違う仕上がりを見せている。
シャーリイ・ジャクスン、もっと早く読めばよかった。大好きです。
翻訳小説
|HINOKIasunaro| 20080525
■リチャード・ブローティガン
翻訳は藤本和子。
解説はやはりというか、柴田元幸。二回目だけどやっぱり云っておこうか、ごごご豪華あああ。
いやこれは読むのに時間がかかった。せいぜい200頁くらいの小説なんだけど、長篇で一続きの話ならともかくこれがまあ、47もの掌編に分かれていて。いちおうそれが「通し」でひとつの作品だということになっているから続けて読むんだけれども1つ1つの話ごとに立っているグラウンドが違うっていうか、書き方が違うだけで微妙にリンクはしているんだけど。タイトルにもあるように「アメリカの鱒釣り」っていうくくりの中なので「鱒」と「釣り」はしょっちゅう出てくるんだけど。それらに対するフェチみたいなのもそこはかとなく感じる。でもそういう、釣りのハナシではないしね。例えば「ヘミングウェイが釣りのこと書いたのとは全然違うよなあ」と考えながら読んでいたらそのヘミングウェイのことが出てきたりする、それがまあ「やっぱり違う」ってことを裏付けた書きぶりなのでにやりとしたりするんだけど。
あいかわらず言葉遣いが絶妙でユーモラス。「アメリカの鱒釣りちんちくりん」なんてある。反則だよなあ、こういうのって。「ちんちくりん」なんて単語が傍点振って出て来ただけでおかしいんだもの。でもこれ、解説によれば原文では「ちんちくりん」は"Shorty"。えっ、そんな面白くもなんともない単語なのって感じで。藤本さあああん、ネ申って呼んでもいいですかああ!
とにかく藤本さんの言葉のセンスは最高で、とっても自然でまるで翻訳とは思えず、なんていうか、ひとつひとつの文章はすううっと入ってくるんだけれど、書いているのがブローティガンというひとなので入ってきてそのままひっかけずにすうっと読んじゃうと理解できないっていうか、「あれ?」ってなってまた戻るっていうのを何回も何回もやってしまった。すぐわかるのもあるんだけど、でもこの本はそうじゃないのが多かったなあ。例えば日本人の作家が書いた大衆小説なんかはそれで内容まできっちりアタマに入るし理解もできるんで、それで全然かまわないんだけど、たまにこういうの読むと頭の違うところを使っている気がする。小説って言ってもいろいろだなあ、ってハナシ逸れちゃった。
この本はとりあえず翻訳者のあとがき「鯨が産んだ鱒」が凄い。解説も良い。本文を読み下す間に私はあとがきを3回読み、そのたびに方向を教えてもらいながらそろそろと進まなければならなかった。
まあ、解説の柴田先生によれば「アメリカ小説からいわゆる「人生の意味」なり「作家の教え」なりを読み取らねば」などという「強迫観念」とは対立した位置にこの小説はあるのであり、「作品を意味に還元するよりも、まずは一行一行の奇想ぶり、変化に富んだ語り口の面白さ、その背後に見える憂鬱などに耽溺するよう誘ってくれているような小説」に出会えた「解放感」を感じることこそが素直な読み方であるらしいが、いやー、でもそれだけで200ページ読むのはけっこう労力使うっていうか、逆にわかりやすい「意味」が見える方が楽なんだなあ、というか。考えて答えがある小説に慣れちゃってるから答えがなくて、それでオッケーなんだよって云われても踊り方を知らないんで戸惑っちゃうんだね。「足踏んじゃってるんじゃない?」とか不安になって、だから解説とか読んじゃう。それじゃブローティガンの正しい読者とは云えないんだろうけど、そんでうんまあ、確かに文章ひとつひとつは愉快なんだけどね。そんなこんなでいまののアメリカではほとんど読まれなくなっちゃってる、って聞くとなんとなく納得してしまうというか、ま・アメリカにも絶対熱狂的ファンは少なからずいると思うけど。なんかそういう、力がある作家なことは確かだから。
藤本さんの「訳者あとがき」も「文庫版へのあとがき」も、ブローティガンへの思いの強さ、信念みたいなものがごおお、といまだに熱波を伴って伝わってくる名文なのだが、例えばこういう部分がある。
アメリカの読者や文芸評論家が、とくに七〇年代に、ブローティガンをビートニク文学の代表的な作家だといって、ほんの短期間もてはやしたあと、いつのまにか塵芥収集のある月曜日に、まるで古い帽子を生ごみといっしょに棄てるような態度で「処分」してしまった事実と、ビートニクたちが踏みこまなかった、ずっと先にある場所へ、ブローティガンはひとりで歩き続けたことを考えてみたい。かれがポストモダンの作家だと自らを定義していた、というふうには思わないが、不条理の、幻想の、漫画みたいな、ライト級の作家だと考える時期もそろそろ終わらせたほうがいい。
凄いでしょこの文章! あとがきでこんなに個性的で美文だなんて、このひと作家じゃないの? って何回思ったことか。
アメリカで1967年に刊行された本書が1975年に日本で翻訳、晶文社から出版され、そこからずずずずいっと30余年の時を経て2005年に新潮社で文庫化された、その長い年月を感じさせる重くて深い言葉である。
翻訳小説
|HINOKIasunaro| 20080511
西瓜糖の日々 (河出文庫)
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リチャード ブローティガン
河出書房新社
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■リチャード・ブローティガン
翻訳は藤本和子。
解説は柴田元幸。ごごご豪華あああ。
この小説は1964年の5月に書きはじめられ、7月にはもう書き終えられていたという。
西瓜糖の日々。ああ、なんて美しい響きの言葉であろうか。原題はIn Watermelon Sugar。西瓜糖、ってためしに検索してみたら実際に商品としてあるんだなあ。でも、このお話に出てくる西瓜糖はちょっと違うぞ。なんせ西瓜鱒油でランタンを燃やしたり、西瓜糖で橋を作ったりしてあるのだ。西瓜種子インクで手紙も書ける。女たちは西瓜糖でできたドレスを身に飾り、男たちは西瓜工場に勤めている。そんな世界がここにはある。
この小説を比較的早く読み終えて(なんせ薄い)、それからさてこれはどう感想を書いたものかなあと私は中空をしばらくぼんやりと眺めた。思い出すのはもう十年ほど昔、初夏のツツジ咲き乱れる葛城山頂付近で食べたスイカアイス(どこでも買える市販品)のひんやりした控えめな青臭いような甘みだ。忠実にスイカの8分の1カットを模した細長い三角形のそれはちゃんと下の方が緑で上の赤い部分にはチョコで種まで散らばしてあった。口に入れると想定したいわゆるアイスの甘さよりほんの少し足りない、ああ、スイカってこんな感じだった……と思いながら二口目を齧った。
この「ほんの少し足りない」感とこの小説の雰囲気がリンクしているような気がする。
「バラをつくって生きてますよな」と言ったのは『ポーの一族』(萩尾望都)に出てくるおばあさんだが、このアイデス〔iDEATH 〕では西瓜糖なのだ。
いま、こうしてわたしの生活が西瓜糖の世界で過ぎてゆくように、かつても人々は西瓜糖の世界でいろいろなことをしたのだった。(中略)
話を伝えるためには、あなたのいるところはとても遠く、わたしたちにある言葉といえば、西瓜糖があるきりで、ほかにはなにもないのだから。
冒頭のこれらの言葉でたちまち引き込まれるその世界にはそして確実に何かが欠けている。両親を食べた虎たちが言葉を話す。ひとびとは〈忘れられた世界〉に忌々しげに目をやり、そして目を逸らす。「わたし」ははじめマーガレットと恋人だったがやがてポーリーンと愛し合うようになる。「わたし」がマーガレットを語るときには「またしても」が付き、それが重ねられていく。重ねる言葉の残酷なまでのリアリティ。言葉を重ねるだけで、ひとはこんなにも心を表わせるのだという驚き。
欠けていくこと、忘れていくこと、過ぎ去ったことに縋られ追いかけられることへの嫌悪。
――ああ、若さってつまりはそういうことに冷酷なまでに正直でいられることなのかも知れない。
私はナイフで己の耳を削ぎ目を抉って死んでいったインボイルたちに深い同情を覚える。鏡の中で死んでいくマーガレットに悲しみを覚える。
血を流し、ふらつきながら死んでいく彼ら彼女らに対する「わたし」の視線の徹底した揺るがなさがこの世界である。
翻訳小説
|HINOKIasunaro| 20080510
芝生の復讐 (新潮文庫 フ 20-3)
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リチャード・ブローティガン
新潮社
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■リチャード・ブローティガン
良い感じの写真が表紙で帯に岸本佐知子さんの推薦文がこうある。
【ブローティガンと翻訳家・藤本和子。大学時代、この二人に出会わなければ、私はまるでちがう人生を歩んでいただろう。】
帯には更に【『アメリカの鱒釣り』の作家の傑作短篇集。】なるアオリ文句も並んでいる。
すいませんブローティガンって誰ですか『アメリカの鱒釣り』って有名なんですか。という段階のモンダイガイなあたくしなんだが岸本さんの解説から抜粋されたこのお言葉があって素通りできるものではない。
文庫折り返しの著者及び翻訳者の略歴にざっと目を通し、岸本さんの「紀ノ国屋スーパーのリチャード・ブローティガン」、藤本さんの「ふたたび、訳者あとがき」を読んでから本編に臨んだ。
それによると要するに、ヒトコトで云えばこれは自伝的な要素の強い62の短篇集ということになるらしいのだが、最初の話を読んでみると「自伝小説」という言葉から抱く私のイメージと実際の作品がかなりかけ離れていて、例えばいっそ「実験的前衛的短篇集です」と云われたほうがすんなり飲み込める感じ。作品をいくつか読んだ後でもう一度藤本さんの言葉を読み直し、それからまた本編に戻る。……なるほど。そう読めば「根っこ」というか「戻っていく場所」が分からんでもない。「わたし」なる人物を著者の影を追うように読み進むと非常に見通しがよくなった。
この種の小説をどう読むかっていうのはもちろん個々によって十人十色なんだろうけれども……なんていうか、タイトルがあって、作品があって、内容を読んでいくんだけれども、感じ取るものはそれらを越えたところにあって、それが果たして著者が言いたかったことかどうかはわからないけれどとりあえず落ちてきたものを自分のものとして飲み込むようにして読んでいった。内容とタイトルがなんていうかあさっての方向向いてるタイプの作品集ってあるけど、これはまさにそう。だから「おい、ちゃんと読み取れよ」と言い渡されているような気がしてどきどきしてしまう。
昔、国語という科目を苦手とする生徒に「行間を読め」とのたまう教師が少なからずいて、それを云われた生徒がわかったようなわからんような顔をしていたが、いまなら「空気読め」とでも云ったらよく伝わるのだろうか、とりあえずブローティガンの作品はそんなふうに浸っていくほかないと思う。
すぐに呼吸できて飲み込めるものばかりではなくて3回くらい読んでしまったものもいくつかあるし、好きなのもよくわからないままのもあった。中盤以降は慣れてきたこともあってすんなり同調できるようになったけど、例えば最初の表題作なんかどう解釈すればいいのかちょっと戸惑ったなあ。「1/3 1/3 1/3」がかなりツボで、これを読んで「あ、このひとの世界好き」と楽になった。
この原著は1962年から70年までの9年間に書き溜められたもので、なるほどその時代ならではの背景を感じさせる作品が少なからずあったが、それにつけても文章そのものが持っているユーモラスな雰囲気というか、時には飛び跳ねているような雰囲気が新鮮で、これは原著そのものがそうであるのか、藤本和子なる翻訳家の腕ゆえのことなのか、岸本さんの文章のこともあって非常に気になった。悲しいかな、私は原文を読んでそれがどうこう判断できるような英語力を持ち合わせていないが、少なくとも翻訳されたこの作品の日本語の単語の並び方、リズムはとてもスパッ、キリッ、としていて明るく鮮やかだ。
翻訳小説
|HINOKIasunaro| 20080506






















